2007年9月28日 (金)

私達は戦争責任にどう向き合うか

1972年9月29日、周恩来と田中角栄が日中共同声明に署名し、中華人民共和国と日本が国交を結びました。

この35年間、日本と中国はその関係をより強固なものとしてきました。特に経済関係においては、中国は日本にとってアメリカに次ぐ輸入相手国となっています。

しかし、政治的には日本の政治家による不用意な発言によってたびたび摩擦が起きています。

最近では、小泉元首相の靖国神社参拝によって、日中関係は冷え込んでしまいました。

私が中国に滞在したことで、日本軍がかつて中国大陸で犯した罪に触れるにつけ、この事実にどう向き合い、中国の人たちにどう接したらよいのだろうかと自問しました。「ごめんなさい」と謝りたい気持ちの一方で、「でもこれは直接私たちが犯した罪ではない」という気持ちもありました。もちろん、私達の先祖が中国の人たちに大変な思いをさせてしまったことは事実です。

まずはこの事実を知ることが何よりです。

事実を学ぶことを自虐史観だという人もいますが、何が自虐なのでしょうか。自分たちの先祖が犯した罪に目を向けることは自虐でもなんでもなく、むしろとても辛く勇気のいることです。事実に目を向けず、過去を正当化し、他者への思いやりを持たない歴史認識は未来をも見誤ります。

その上で、「ごめんなさい」と謝るのではなく、「もう二度とこのような悲劇は繰り返さない」と誓い、そのための行動をし続けることこそが今の時代に生きる私たちに課せられた戦争責任の取り方です。

小泉、安倍と続いた自民党政権には残念ながらその思いを見出すことが出来ませんでした。さらには、9.11テロに端を発する、アフガニスタンやイラクへのアメリカの侵略を盲目的に支持する日本政府の姿に、この国の誓いを見出すことは出来ません。自国の悲劇的な戦争被害までをも「しょうがない」という政治家に、どうして他国や世界のことまで思いを馳せる力量がありましょうか。

戦争を放棄し、戦力を持たない決断は、とても難しく、困難な決断です。しかし、かつての悲惨な思いを二度と起こしてはならないという日本の尊い決断です。

それは、アジアで悲惨な行為を自ら犯してしまったと同時に、原爆被害など自らも悲惨な思いをしてきた日本だからこそ出来る、決断だとも言えます。

叡智と勇気を振り絞って憲法九条を遂行していくことが、日本の歩むべき道だと強く信じます。

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2007年9月27日 (木)

同じ人間なんだ

1994年3月、5ヶ月間の中国滞在を終え帰国することになりました。

瀋陽への旅から帰り、慌しく帰国準備をし3月18日に長春を離れることになりました。

荷造りを終え、仲良しの東北師範大学生、孫向陽君、張正偉君、そしてカナダ人の老王(本名はEloy Royさん)と四人で長春最後の日を過ごしました。

昼間なぜか動物園を見学しました。そして老王の部屋に行きウィスキーを飲みながら、張がしきりに蛍の光を歌ってくれたのを覚えています。

その後、北京行きの夜行列車に乗車するため荷物をまとめて出発の時間まで、大学のレストランでお別れ会を開いてくれました。孫と張がかいがいしく私の重い荷物を持ってくれました。

老王のご馳走で食べきれないほどの食事をいただきながら、3人の友人とこれまでの思い出を語りました。

その中で、張がこんなことを言ったんです。

彼はそれまで、時折中国人の日本人に対する感情は決してよいものではなく、今でも日本人を憎んでいるという発言を私に対してしていました。

その背景には、彼のおじいさんが戦争中に体験した怖い話を彼が聞いていたことがあったからでしょう。瀋陽に住んでいた張のおじいさんが子供の頃のこと、部屋でマージャンをしていた大人たちのところへ日本兵が突然踏み入ってきて、そこにいる人たちを切り殺していったそうです。物陰に隠れてその光景を見ていたおじいさんは恐ろしくて震えが止らなかったそうです。

その話を聞き張は、日本人は鬼かアニマルだとずっと思っていたそうです。

しかしこのお別れ会で彼は、「シャオリン(小林)に会って、日本人も中国人と同じ人間だってことが分かったよ。」と言ってくれたのです。

この一言がどれほどうれしかったことか。

彼の中で二十年近く培われてきた日本人への感情が、私との出会いで変わったんです。

私も、中国に旅するにあたって、中国の人たちが日中戦争の思いをどう今に引き継いでいるのかが大きな不安でした。

日本に対するまなざしは、時に羨望であり、憧れであり、また張のように憎しみでもありました。

そんな人たちとの語り合いの中から私自身も、中国人も日本人も同じ人間なんだっていうことを感じました。すごくシンプルなことなんです。

しかし、こんなにシンプルなことがシンプルに理解できないんですね。

歴史的背景、社会的背景、国家的背景、文化的背景、言語の違い、多くの違いがあるから、つまらない壁が幾重にも出来てしまいます。

同じ人間として痛いときは痛い、悲しいときは悲しい、嬉しいときは嬉しいんです。

若者は国が違っても、女の子のことが気になるし、遊びたいし、挑戦もしたいんです。

どんな違いがあったって地球上に住む人間はみんな同じ・・・

長春駅で彼らとお別れするときは、涙が止りませんでした。

純粋で、思いやりがあって、好奇心が旺盛な多くの中国の友人との出会いは私にとって何にも代えがたい財産となりました。

同時に、いまだに日本と中国との間に横たわる歴史認識にまつわる相互不信を解消していくことは、こうして中国に触れることの出来た私の責任でもあると強く感じました。

この後日本に帰国するわけですが、その後も休日を利用して中国を訪れ友人たちとの再会をしました。また、上海から南京への旅もし、南京の悲劇に思いを馳せました。

私の5ヶ月間に渡る中国への旅は、かけがえのない人たちとの出会いの旅でした。

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2007年9月21日 (金)

一生忘れられない光景~平頂山~

先日新聞の記事で、平頂山の記念館が改修されてオープンしたということを知りました。

近代的な設備を整え、今後も多くの人にこの出来事を伝えていくのでしょう。

1932年9月16日、日本軍がこの集落を襲撃し、多くの住民を虐殺しました。

大きな記念塔があり、少し下ったところに記念館があります。虐殺の現場をそのまま保存し建物で囲ってあります。

見学した時のメモがあったので、一部引用します。

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室内には硝子で覆われた人骨。川のように長く続いている。悲惨。数え切れない。

人骨の川(山)をじっと見つめると胸に何かが迫ってくる。本で読んだことが目の前にある。殺し、石油で焼く。大人も子供もない。口を開けたままの頭骨。叫びが聞こえてくる。

日本軍はえらいことをしてくれた。ここに見る骨はその一部に過ぎない。ここだけでなく、東北そして中国大陸のあらゆるところでこの行為を行った。

ショックだった。

盧溝橋、長春などでこの行為は聞き知っていたが、実際の現場を見たらもう何の説明もいる筈がない。

僕でさえこんなにショックだったのに、一般の日本人はどう見るだろう。改めて、つくづく日中戦争の教育の甘さを感じる。こんなに重要なことなのに、何も知らされていない。60年も年月が経っているのに何も知らない。

言葉がなかった。市内のバス、瀋陽へのバスの中で、なぜか息をするのが苦しかった。

孫もきっと同じだったと思う。

1994年2月13日記

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2007年9月20日 (木)

戦犯管理所~撫順~

瀋陽からバスで40キロほど行くと撫順という町があります。

決して大きくないこの町に、戦犯管理所という歴史的な場所があります。第二次大戦後日本軍や満州国の官僚が収容されていました。映画「ラストエンペラー」の冒頭で愛新覚羅溥儀が自殺を図るシーンがありますが、その場所がこの管理所でした。溥儀は、戦後この管理所で過ごし後に模範囚として釈放されました。溥儀がそれまでの皇帝としての人生を改め、一人民としての心の変遷をどのように迎えたのか、この収容所跡の建物を見学しながら思いを馳せました。

同時に、多くの日本軍がこの収容所で教育を受け、その後日本に送り返されました。シベリアに抑留され過酷な日々を過ごした人たちとの扱いの差は大きかったのではないでしょうか。中国共産党の帝国主義は憎むが、日本国民は憎まないという姿勢が見て取れます。

収容所見学の後、バスで平頂山へ向かいました。

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2007年9月19日 (水)

瀋陽

1993年秋からの中国滞在も後わずかに迫った94年の3月、卒業旅行といわんばかりに孫君を誘って、二人で遼寧省瀋陽へ旅しました。

列車の手配や宿舎はすべて孫にお任せ。事前に手配することなく瀋陽へ向かいました。

長春から瀋陽までは汽車で5時間。一般の中国人が乗る硬座といういわゆる普通席に乗車しました。瀋陽への行き帰りともこの硬座に乗車しましたが、中国のバイタリティを感じさせる場所のひとつです。乗るのも降りるのも競争。眠る人、話す人、ゲームをする人、食べる人。時に押し競饅頭のような世界で、それぞれの時間を過ごす車内の様子は圧巻といえるでしょう。

行き当たりばったりで出かけた旅で、ホテルの確保にも一苦労。当時の中国はホテルも外国人用と中国人用がありました。孫に交渉してもらい中国人用のホテルに宿泊。3人部屋で、見知らぬ人が一人相部屋となりました。

瀋陽は歴史ある街です。

清の元となった後金という満州人の国家の首都だった場所です。

孫と共に訪れた北陵という二代目の皇帝のお墓。観光客もまばらで、奥のほうに歩いていくと石像などが転がっていて、あまり管理が行き届いていない様子。歴史的な建造物でありながら、ほったらかしという風でした。後金の皇居であった故宮は、北京の故宮の縮小版といった感じで、立派な建物でした。こうした建物から当時の隆盛が伝わってきます。瀋陽の故宮は現在世界遺産に登録されているとのことです。

瀋陽でぜひ行きたかったのが老辺餃子という店。餃子の老舗でおいしいといううわさをガイドブックでみて、行ってみました。絶妙の水餃子を頂きました。

さて、瀋陽のかつての名称は奉天。

市内の柳条湖と呼ばれる場所に九・一八歴史博物館があります。今は新しい建物があるようですが、私が行ったときには、なんとも変な形をした石造りの博物館がありました。内部は狭く、あまり展示品も充実はしていませんでした。博物館の傍らには日本軍が建てていた記念碑が無造作に横たわっていました。

1931年9月18日。この場所で関東軍が鉄道を爆破し、中国東北地方の占領を始めました。柳条湖事件と呼ばれるこの出来事が満州事変の始まりでした。

確か学生時代には柳条溝事件と教えられ、その後柳条湖事件と習い直したように思います。

満州時代の華やかな建物が多く残る瀋陽を後に、私と孫は近隣の撫順へ向かいました。

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2007年9月14日 (金)

春節

中国へ行っていた当時の日記を発見しました!これで、あやふやだった記憶もだいぶ鮮明になります。

春節は、いわゆる旧正月のことで、中国では一年で最も大きな行事です。

多くの人が田舎に帰省し、交通機関は大混雑します。

東北師範大学の友人の孫君、張君もそれぞれ故郷に帰省しました。

孫君が春節に家に遊びにくるよう誘ってくれたので、小旅行を企画しました。

孫君の故郷は、河南省の長葛という農村にありました。2月初旬、まずは一人で北京に向かい、北京から孫の友人の丁君と合流。彼に連れられて省都鄭州へ入ります。移動は汽車ですが、大変な混雑。長春北京間が14時間、北京鄭州間が10時間という長旅。しかし車窓から眺める中国の風景は見ごたえがありました。

鄭州で丁君と別れ、周辺の観光。洛陽や少林寺、龍門石窟、黄河を観て周りました。

いちばん苦労したのがタクシーや観光地での客引き。外国人と見るやボッタクリの度が過ぎて、辟易としました。

鄭州から一時間ほど小型の乗り合いタクシーで孫君の家にようやくたどり着きました。

赤土の上にレンガの建物。トイレは屋外にあり、レンガで囲ってあるだけで扉も何もありません。鶏や黒豚が周囲を歩き回っています。どの家の門にも真っ赤な紙にめでたい文句の書かれた紙が貼ってありお正月の華やかさが感じ取れます。

夕食はお父さんの手作り。食事の最後は水餃子。そして、中国恒例の春節のテレビ番組をみんなで見ました。さらには深夜の爆竹。

4日間の滞在中、北京で一緒になった丁君を始め、孫や彼の姉妹、ご両親、友人とゲームをしたり、近くの町へ自転車で買い物に行ったり、おじいさんと白酒というコーリャン原料のきつーいお酒を飲んだり、ご馳走をたくさんいただいたりして過ごしました。のんびりと、ほのぼのと、そして暖かい忘れられないひと時でした。

これが本当の中国の農村風景なんだと肌で感じました。

孫の実家を離れる日、お昼ご飯と白酒をいただきながら、おじいさんが「日本と中国は隣人同士仲良くやっていくよう、孫と共に活躍してほしい」というようなことを言ってくれました。

すごくありがたく、そして未来に光が差すようなお言葉でした。

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2007年9月 4日 (火)

中国の友人②

中国に滞在していたとき、いちばん仲がよかったのは大学での友達でした。

その次に仲良くなったのは、行きつけの食堂の人たちです。

もうお店の名前は忘れてしまいましたが、いちばんよく行ったお店では、4人が働いていました。

はじめは家族だとばっかり思っていたのですが、次第にそうでないことが分かってきました。

オーナー夫婦と、コックさんとウェイトレスさん。コックさんはみんなから「パン」と呼ばれていました。これも初めは名前かと思ったのですが、そうではなくて彼のニックネームでした。中国語で「胖(パン)」とは「でぶっちょ」のことです。確かに彼はでぶっちょでしたが、料理は絶品でした。

ウェイトレスは童艶超という女の子でした。まだ幼さの残る子でしたが、気が合って彼女には中国語をいろいろと教えてもらいました。料理に関する中国語も、その表示ルールが分かってくるとおおよその見当がつくようになりました。肉料理、鳥料理、野菜料理、スープ類など呼び名が統一されている部分があるのでそれさえ分かれば注文して失敗することもありません。

艶超は長春郊外の農村から働きに来ていて、一度バスに乗って彼女の家に遊びに行ったことがあります。お母さんとお姉さんが歓迎してくれて楽しいひと時を過ごしました。

オンドルと呼ばれる床下暖房で冬の寒さの厳しい長春でも室内はポカポカです。家の前の道を豚が歩いていたり、本当にほのぼのと農村風景でした。

彼らの食堂は、途中オーナーの奥さんがなくなってしまったらしく店じまいしてしまいましたが、パンも艶超も、お店を変わって元気に働いていました。

もう一軒の行きつけのお店が趙さんのお店です。趙さんは20代前半の若さでしたが、すでに自分の店を持つ経営者でした。驚いたことに片言の日本語を話します。どこかで勉強したといっていました。彼も日本にとても興味を示し、日本のことを話したり、中国のことを教えてもらったりするよい友人でした。彼は朝鮮族で、彼の店の料理には朝鮮系のものも多くありました。ものめずらしさに一回食べたのが犬肉です。日本では絶対に食べないと趙さんに言いましたら、彼らもあまり食べないと言っていました。ただ、飼い犬とは別で、食用に飼育された犬がいるようです。

どんな味だったか・・・もう忘れてしまいました。

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2007年9月 3日 (月)

食堂

滞在していた中国の大学構内には外国人向け食堂があり、そこで毎日3食食事をとることができました。

私はほとんどここで食べることはなく、学校の外の一般の食堂で食事をしていました。

外国に旅行に行く楽しみの一つは、現地の料理を食べることです。それも、街をうろうろ歩きながらふらっと入るお店で食べるのが思わぬ出会いがあったりして楽しいものです。

とはいっても、言葉もうまくしゃべれませんし、メニューを見てもどんな料理なのか分からないことがほとんどです。注文したものの、ものすごい量の料理が出てきたり、想像していた物とぜんぜん違うものが出てきたりなんて事も少なくありません。

それでも、そんななかからこそその地の風俗や人の暮らしが見えてくることが多いです。また、そうやって言葉も少しづつ覚えていきます。

長春では、はじめのうちは食堂に入るのにもなかなか勇気がいりました。一人ではいると、周りの人がじろじろ見るし、言葉がうまくしゃべれないので恥ずかしさでいっぱいになってしまうからです。

ですから、目当てのお店を見つけてもその前を行ったりきたりして中の様子を探ります。あまりお客さんがいないことを確認して思い切って入ります。

一度座ってしまえば後は、もう注文するしかありません。

外出するときは小さなメモ用紙をいつも持ち歩いていたので、会話が通じないときは筆談を交えながら注文します。

小さなお店では、店員さんも気さくにどこから来たのかとか、日本はどうだなどと、世間話に花が咲くときもあります。

こうやって何件かの通いつけの食堂ができました。

驚いたのは、500円も掛けないでおなかいっぱいの食事が出来ること。大皿2,3皿、チャーハン、ビール大瓶2本くらい頼んでも平気です。

少し脂っこいところはありましたが、やっぱり本場の中国料理はおいしい!

おなかの弱い人にはお勧めできませんけど、普通の中国人が普通に訪れる食堂はたまりません。

毎日こんな生活をしていたがゆえに、中国滞在中の半分以上を通風に悩まされる結果となってしまいました。

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2007年8月31日 (金)

中国の友人①

東北師範大学では、基本的にウィークデイの午前中に語学講座を受講します。

それ以外はフリーです。

しかしそれでは、半年の予定で中国語を学びに行った身としてはなんとももの足りません。

一緒に学ぶ生徒は、日本人、韓国人がほとんど。

そのなかで一人、カナダから来た老紳士がいました。後に私たちは彼を老王(ラオワン)とよび親交を深めました。

彼が、「大学の一般学生に家庭教師をお願いするといいよ」とアドバイスしてくれ、彼の家庭教師をしていた張正偉君を紹介してくれました。張が大学の寮で同室の友人、孫向陽君を紹介してくれ、私の家庭教師として中国語を教えてくれることになりました。

以降、ほぼ毎日、彼が私の部屋に尋ねてきてくれて中国語会話のレッスンをしてくれました。家庭教師といっても、彼はレッスン料を受取ることなく友人として、私と多くの時間を過ごしてくれました。

特に、老王、張、孫と4人で食事に行ったり、いろいろな話をしたりしました。

張は、遼寧省の瀋陽から、孫は河北省の田舎から来ていました。老王はすでに60歳くらいだったと思います。私は、20代後半でしたから、年齢も、それまでの生活も、価値観も異なる4人だっただけに、彼らと過ごす時間はかけがえのない学びの時間でした。

中国人の二人は、当時バブル盛んの日本を、経済的成長をし成功した国として憧れのまなざしで見ていました。彼らの年代の多くはおそらく同じように日本を見ていたように思います。

中国人青年との交友を通して、世界や国家について多くを論じ、同時に中国の大学生の真剣さと、向学心の高さを痛感しました。

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2007年8月28日 (火)

偽満州国

1993年秋、中国という国はどんな国か肌で感じたいと思い、単身中国へ渡りました。

中国では北京語と広東語が広く使われています。公用語としての北京語=普通語を学ぶには北京、あるいは東北地区が綺麗な普通語を話す地域だということで、吉林省の長春にある東北師範大学の外国人向け語学教室で中国語を学ぶことにしました。この人口7百万人とも言われる吉林省の省都、長春が拠点となりました。

長春は、かつて新京と呼ばれた満州国の首都でもありました。

中国の人たちは満州国のことを「偽満州国」と呼びます。清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀氏が元首として統治した国ですが、実際は当時満州を占領していた日本の傀儡政権だったからです。

長春は、当時の建物がたくさん残っています。駅から大通りを行くと大きなお城のような建物が見えます。共産党の省委員会の建物として使われていますが、かつては関東軍司令部でした。あちこちに大きな建物があり、当時の官庁として使われていた建物ばかりです。中国の人たちはその建物を学校や病院、役所として今も使っています。

私が長春に着いて最初に訪れた場所は、「偽皇居」でした。

ラストエンペラー溥儀がここで過ごし、執務を行った宮殿です。映画「ラストエンペラー」のロケにも使われていました。

ここも、中国の人たちにとっては「偽皇居」なのです。

周囲に住宅や市場のような店が並ぶ雑踏を通り過ぎると、突然小さな入り口が現れます。近くでタクシーを降りたのですが、場所が分からずうろうろしていた私を中国人の青年が親切に案内してくれました。君はどこから来たのかと聞くので、日本だといいました。純粋に歓迎してくれている風の彼の姿に、少し戸惑いを覚えました。

博物館として一般公開されているので、内部を参観することができます。溥儀が暮らした建物はこじんまりとした小さな建物で、部屋も決して広くないものでした。

元首とはいえ、かごのなかの鳥という暮らしだったのでしょうか。

溥儀の正妻は婉容といいます。

17歳で溥儀の妻となり、その後アヘン中毒となり廃人になって、死んでしまいます。結婚当初の写真や故宮で撮られたらしい写真なども見ました。初々しく、明るく幸せそうな様子が見て取れます。彼女を取り巻いた環境のその後を思うと、時代に翻弄された一人の女性の悲劇を、北京の故宮も含めその現場を歩きながら実感します。

日本と中国、そしてアジアの悲劇の現場を歩くことは、私自身の想像力に止めどもない刺激を与えてくれました。

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